悪魔にされた牧神パンの話―ギリシャ神話から現代まで― 古より愛されてきた牧神 さて、話はちょっとだけギリシャ神話の時代に戻りますが、牧神パンが登場する話はシュリンクスやピテュスのような恋愛ばかりではなく、心やさしい一面をのぞかせるものもいくつかあります。代表として二話を紹介します。特に共に伝令の神ヘルメスを父に持つ異母兄弟ダフニスに対する話では、その献身ぶりは特筆すべきものです。 愛の神キューピッドとの夫婦の約束を破り、最愛の夫を失った美しき乙女プシュケ。彼女は絶望のあまり川に身を投げるのですが、かりにもキューピッドの愛妻の娘を溺死させてひどい報復を受けてはたまらないと、川の神は岸辺にそっと打ち上げます。そこをたまたま通りがかったのが牧神パン。恋の顛末を知っていた彼は、優しく彼女を慰め、暖かく励まし、キューピッドの許しを求めて旅立つよう諭したのでした・・・。 シチリアでヘルメスとニンフの子として生まれたダフニスは、生後すぐに月桂樹の下に捨てられてしまいます。やがて美少年に成長した彼はしかし捨て子ゆえに誰をも愛そうとをはしません。そのことで愛と美と女神アフロディーテの怒りをかい、盲目にされ、さらに《叶う事のない恋をする》という罰を受けてしまうのです。 そんな不遇な彼に深く同情し、パンは葦笛と歌を優しく手ほどきしてやりました。やがて牧歌の先生となったダフニス。その奏でるメロディーは、ニンフや森の動物たちの心を魅了し、彼の呪われた恋の悲しみに皆涙を流したといいます。・・・しかしそののち、彼は若くして短い生涯を閉じてしまいました。その知らせを聞いた牧神パンは、遥かアルカディアからシチリアまで駆け付け、手厚く弔ったということです・・・。 まるで宮沢賢治の「アメニモマケズ」の一節《野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ・・・》のような、「牧歌的」というイメージから伝わる優しさがギュッと詰まったお話ですね。 この他にも牧神パンが登場する文学は古今問わずいろいろあります。これはギリシャ神話ではなくギリシャの古典文学ではありますが、ロンゴス作の「ダフニスとクロエー」(バレエとしても有名)や、近代の児童文学作品の「たのしい川べ」(ケネス・グレーアム作)、そしてつい近年映画化された「パンズ・ラビリンス」にも登場(準主役にして怖い役ではありますが・・・)します。もちろん、「ピーターパン」のモデルも牧神パン(作者も作品中にそうほのめかしています…『ピーターパンはセックスシンボルだった』松田義幸氏の説より)ですし、探すと以外に登場する文学作品の数は多いのです。 また、ギリシャ神話をモチーフとして音楽や劇も多く作られ、愛されてきました。有名なのはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」でしょうか。これはマラルメの原詩やニジンスキーの振り付けが官能的だったことから当時はセンセーションを巻き起こしたそうですが、曲そのものはそれほど卑猥さは感じられません。他にも、私はどのようなメロディーか残念ながら知らないのですが、同じくドビュッシーがムーレイの戯曲「プシュケ」のために作曲した「シリンクス(原題は「パンの笛」)や、ルーセルの「笛吹きたち」の中の「パン」、ムーケのソナタ「パンの笛」、ドンジョンの「パン」などがあります。 そしてさらに絵画、芸術の世界にまで足を延ばすと、それこそ古代には星の数ほどの作品が描かれ、作られてきました。もちろんそのほとんどがギリシャ神話が題材でしょうが、それとは別に、民間信仰として日本での「道祖神」が村境に立っているという感覚でしょうか、ヨーロッパの農村部に行くとパンをかたどった石像がちょこんと祭られているといった風景が存在するそうです。はるかな古より人々と共に生きてきた牧神パン。「パニック」という言葉の語源になったにもかかわらず、人々は時に恐れ、時に嘲り、時に親しみをもって愛してきたのです。 NEXT 悪魔にされた牧神パンの話―ギリシャ神話から現代まで―悪魔にされた牧神パン のページへ 聖なる笛パンフルート―牧神パンと私―目次 パンフルートってどんな楽器?―その姿と名の由来― 悪魔にされた牧神パンの話―ギリシャ神話から現代まで― 音楽と農業の関係―自然のハーモニーと人間と― パンフルートが響く世界に―牧神パンの想い― おまけ―牧神パンがくれた恋?― ☆ |